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■八戸の歴史とあゆみ
八戸の中心部は城下町として発展してきました。今でも中心部近くに敵の侵入を防ぐ鉤型の道路が残っていたり、また市街地の地名に「徒士町(かじしちょう)」「番町」「大工町」「鍛冶町」などが残っている事からもわかります。
その八戸には二つの城跡があります。一つは根城城跡、もう一つは八戸城跡です。これには歴史の背景があります。

その昔、鎌倉時代の奥州征伐により、甲斐国(現在の山梨県南部町)の南部光行がその軍功としてこの一帯を授けられた事から奥州南部氏がこの辺りを治めることになりました。
そして時代は下り南北朝時代、同じく甲斐国で南朝(上皇)方の南部師行(もろゆき)が、陸奥国司北畠氏に従いこの奥州の地に下り、国司の代理として糠部(ぬかのぶ。現在の青森県南部地域)を管轄する事になりました。その際に、現在の八戸市根城に築城しましたが、これが根本の城ということで「根城(ねじょう)」と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後約280年間この根城を中心に根城南部氏が治めていましたが、その後足利方の三戸南部氏(現在の三戸町に築城)が勢力を強めたため次第にそちらが主となり、江戸時代に根城南部氏は岩手県の遠野に国替えとなり根城の中心部としての役割は終わりました。
その江戸時代、幕府により八戸南部藩(二万石)が創設され、初代藩主として南部直房が三戸南部氏より迎えられました。そして、現在の八戸市の中心部にあたる内丸地域に八戸城を築き、以後200年以上この地域は八戸藩の南部氏により治められてきたのです。

根城城跡は現在「史跡 根城の広場」として整備され、根城南部氏が築城した城郭が再現されています。また、八戸城跡は現在の市の中心部にあたるため、ほとんどの遺構はなくなってしまいましたが、同位置にある「三八城(みやぎ)公園」には「八戸城跡碑」や「南部直房公銅像」が立ち、市庁前には「八戸城角御殿(すみごてん)表門(古桜門)」が唯一の遺構として残り、当時を偲ぶ事ができます。

是川遺跡の遮光器土偶八戸はこの城下町以前に発展をみた地域でもあります。
縄文時代の遺跡が数多く存在し、中でも市内の是川(これかわ)地域にある「是川遺跡」は国の史跡にも指定され、貴重な発見が相次いでおり現在も発掘が続けられています。
是川遺跡は縄文晩期の代表的な遺跡であり、通常では腐ってしまうトチの実や草木で編んだ織物、米のモミなどの有機物が泥炭層の中で保存状態もよく出土するため、特に米のモミは従来の考古学概念を覆す発見ともなりました。さらに土器・土偶も数多く出土、「遮光器土偶」や「合唱する土偶」が有名な出土品です。

八戸市は昭和4年(1929)に市制を施行しました。
それ以前、明治4年(1871)に八戸藩が廃藩置県により八戸県とされたことがスタートです。

明治22年(1889)に町村制により八戸町となり、その後明治34年(1901)に長者村を合併しました。
そして、昭和4年5月1日、八戸町と小中野町・湊町・鮫村が合併して八戸市が誕生しました。

その後も、昭和17年(1942)に下長苗代村、昭和29年(1954)に是川村、昭和30年(1955)に市川村・館村・上長苗代村・豊崎村、さらに昭和33年(1958)に大館村を合併し、現在の八戸市の姿になりました。

そして、いわゆる『平成の大合併』として、旧南郷村と2005年3月31日に合併し、現在の八戸市の姿となっています。

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